◆博多べいに込められたもの
太閤町割りで再興された街には「博多べい」と呼ばれる土塀が作られました。この土塀には、石や瓦などが埋め込まれています。もとは戦災のため街中に山積した瓦礫を処分するためでしたが、それらと共に、郷土再興を願い奮起する博多商人の根性と心意気も込められているように感じられます。
その当時が偲ばれる博多べいは、現在でも櫛田神社で見ることができます。これは元々、太閤町割りに協力を惜しまなかった博多三商傑の一人、島井宗室の屋敷跡にありました。この塀が四散してしまうことを危惧した有志によって移築再建されました。
◆「太閤町割り」で博多を復興
中世には貿易で栄えた博多も、戦国期の戦乱を避けることはできませんでした。焼け野原となり衰退した博多でしたが、1587年(天正15年)に、九州平定を遂げた豊臣秀吉により、復興への道が開かれました。これが、「博多町割り」とも呼ばれる「太閤町割り」です。黒田官兵衛も、石田三成らとともに博多の街の再興に尽力しました。
築城の名手とうたわれた官兵衛ですが、城を独立した建物として建設するだけではなく、地の利を活かすことにも長けていたと考えられます。その官兵衛が太閤町割りという「都市計画」に任命されたのも、至極当然のことだったのでしょう。この時に行われた町割りが、現在の博多の街の原型となっています。
■櫛田神社
福岡市博多区上川端町1-41
地下鉄「中洲川端駅」 「祇園駅」から徒歩5分
櫛田神社に移築保存されている「博多べい」。右側の断面に、粘土と瓦が層になっているのが見られます。
(福一不動産発刊のゴジタ2月号より抜粋)