◆博多と福岡の間に架かる橋
商人の町・博多と武士の町・福岡は、那珂川を境に分けられていました。
中洲の東西に中島橋を架けたのは官兵衛の息子・黒田長政ですが、城や街づくりには、官兵衛も大きく関与していました。
自由取引市場をつくり、経済の活性化を図った織田信長を敬愛していた官兵衛が、商人に自由な商いをさせようと考えたのは、自然な流れです。また、太閤町割りの後、長い期間を置かずに目覚ましい復興を遂げた博多商人への尊敬の念もあったのではないでしょうか。
博多と福岡の間に設置されていた門が「桝形門」です。桝形門は、侵入してきた敵を阻止する、軍事的防衛の意味合いと、唐津街道の城下出入口という機能を持っていました。当時の様子は、福岡市博物館が所蔵している「旧稀集(きゅうきしゅう) 」と題された図にも表されています。また、仙厓(せんがい)和尚も中島橋と桝形門を描いています。仙厓和尚は、博多区にある聖福寺の123世住職で、禅画で名高く、当時の文人の間でも知られた人物でです。
桝形門があったのは、現在の場所でいうと、昭和通りの西中島橋がある辺りです。
現在の西中島橋は、平成15年に新設されました。新設にあたって使用されたのは、城壁を連想させる、斜めの白御影石です。また、縦格子状の鋳物により構成されたデザインは、白御影石と、川面に映る明かりを楽しめるように配慮されています。
西中島橋の両脇にある歩道の真ん中部分には、それぞれ3つのベンチが並んでいる。双方の中央のベンチには、仙厓和尚の手による、当時の枡形門の絵を配してある。
(福一不動産発刊のゴジタ3号より抜粋)